不動国行の来歴

「不動国行」は、鎌倉時代中期山城国の刀匠で来派の実質的始祖である来国行の製作の小太刀である。来派は高麗からの帰化人を出自とするといわれている。「享保名物帳 焼失之部所載」。

来歴は、もとは足利将軍家の所有だった。永禄の変で足利義輝が、松永久秀と三好三人衆の謀反により自害させられたさい、松永久秀が奪ったとされる。永禄11年、松永久秀が、織田信長の麾下に服したとき「不動国行」と「薬研藤四郎」をその証として織田信長に献上した。

天正10年、明智光秀の反逆(本能寺の変)のとき、「不動国行」は安土城にあった。明智光秀は、安土城にあった織田信長収蔵の名品名物を自らの本拠地・坂本城に移した。

明智光秀が、豊臣秀吉(当時はまだ羽柴秀吉、以後豊臣秀吉と表記)との山崎の合戦に敗北横死した。これを知った明智光春は坂本城に籠城。

落城の段、明智光春は数々の名刀が灰塵に帰することを潔しとせず、これらを布団に包み、寄せ手の一人堀秀政に渡したといわれている。