三日月宗近

三日月宗近の銘の三日月は、打除けの形が三日月の形に相似しているところから命名されたといわれている。蓋世の刀工と讃えられた三条宗近の作刀の中でも傑出の名刀として後世に伝えられた。その特徴は、刀身が描く曲線の優美さといえるだろう。室町幕府は、将軍家の権威を全国に遍く示すため名刀を収集した。天下五剣のうち、数珠丸を除く、四振を「伝家の宝刀」として収蔵した。ある意味、室町将軍の権威によって名刀としての名声が高まったともいえるかもしれない。三日月宗近のその後の来歴に目をやると、応仁の乱後、足利将軍家は没落の一途たどる。永禄8年、13代将軍足利義輝が家臣松永久秀、三好政康の謀反により殺害される。世にいう永禄の変である。襲撃された際、義輝は三日月宗近で奮戦したとの伝聞があるらしい。永禄の変の後、四剣のうち三日月宗近以外の三剣は、そのまま、足利将軍家に留まった。三日月宗近のみが襲撃側の三好氏の手にわたり、三好氏は後年になって、織田信長に服属する時、交渉の仲介役であった羽柴秀吉(豊臣秀吉)に譲渡された。秀吉は手に入れた三日月宗近を正室おね(北政所)の守り刀として与えたという。寛永元年に北政所が逝去すると、二代将軍徳川秀忠に形見として継承された。徳川家は明治維新後も甲冑や刀剣の銘品を所蔵していた。第二次世界大戦後は、所有者が転々としたが、平成4年、東京国立博物館所蔵となり安住の地を得た。