石田三成の刀

1559年(慶長4年)には、石田三成が襲撃されるという事件がありました。これは秀吉政権の重鎮であった大納言前田利家が死去したことをきっかけに、政権内が不穏な状況になり、加藤清正ら7人が襲撃計画を立てたのです。三成はぎりぎりのところで計画を漏れ聞いたため、何とか大坂を脱出、伏見の自邸にたどり着くことができました。しかし場所を移動しただけでは、今度は伏見邸に来襲してしまうだけです。そこで三成が考えたのは、徳川家康の伏見屋敷に身柄を預けて、保護を頼むという方法でした。三成と家康は激しく対立しており、抗争を続けてきたにも関わらずです。しかし家康は三成を保護し、押しかけてきた七人の荒武将を散らしました。三成には摩擦を避けるために、家督を嫡男に譲り、政界からの隠居をするよう命じました。家康は、次男の結城秀康に中村式部、堀尾帯刀の両名をつけて、三成をその居城まで送らせました。居城は江洲佐和山であり、自分の領内になります。三成は礼を述べた上で、結城秀康に愛刀の正宗を贈って返したそうです。刀の棟に切込の痕があることを由来に、「石田切込正宗」と呼ばれるようになりました。三成の名がついていますが、この切込は三成によるものではなく、それよりずっと昔の戦でついた痕ではないかと考えられています。石田切込正宗を受け継いだ結城秀康は、34歳で急逝して、その後には忠直の手にわたったそうです。三成は佐和山城に居城しますが、後ほど落城してしまいます。金銀の蓄えはなく、三成はほとんどの蓄えがなかった状態が分かります。もし三成が結城秀康に刀を贈っていなければ、落城と共に刀の行方も分からないものになっていた可能性も大きいでしょう。